インド・ヒマラヤ、スピティ・バレーのトレッキング

大雪山の遭難で見るように、ガイドの良し悪しが生死を分けることがある。
私たちのトレッキングは、生死にかかわるような事態はほとんどなかったとはいえ、ガイドに恵まれなかったため、楽しんで歩くどころか苦痛の連続となってしまった。

ラダックのザンスカー・バレーをトレッキングしたときのガイド、料理人のコンビが素晴らしかったので、同じガイドにスピティ・バレーのトレッキングを頼んだが、ぎりぎりになって、自分は他の仕事で行けないので、信頼できる人にガイドを頼んだ、料理人は大丈夫、というメールがきた。
ところが蓋を開けてみると、ガイドも料理人も別の人。それでも、いいガイド、料理人なら問題ない、と思ったが、初日から問題だらけだった(前に書いた、私のビザ問題は別として)。

まずトレッキング出発前に、ガイドが「就職面接があるので、レー(ラダックの首都)にすぐ戻らなくてはいけなくなった。次の村でガイドを探す」と言いだした。とんでもない。村で見つけた見も知らぬ人と一緒にトレッキングはできない。結局、次の村でもガイドは見つからず、彼は就職面接をあきらめた。

(私たちのキャラバン)
出発点となる村では、5頭の馬と馬使いが待っていた。さあ、いよいよ出発だ、と思ったが、なかなか出発しない。食料やテント、料理用ガスボンベなど、私たちの荷物が多すぎて、馬5頭では足りないことがわかったのである。トレッキングの荷物、馬5頭を用意したのは、彼らである。緊急にロバ使いとロバ2頭を調達して、歩き始めたのは午後も遅くなってからだった。

2日目には、こんなガイドなら必要ない、馬やロバの糞をたどれば次の野営地に行ける、 という結論に達した。その日歩くコースの説明もないし、私たちより朝寝坊だし、どんどん先を歩いていき、姿も見えなくなる。ここで足を滑らせて谷に落ちても、ガイドは気づかないで行ってしまうだろう。

さすがに渡河地点では待ってくれていたが、氷河からの濁流が腰まで来て、彼一人の助けではとても渡れない。水に入ったとたん、登山ステッキが流されてしまい、ここで足をとられたら・・・と、死の恐怖が頭をよぎった。他のグループの馬使いが助けてくれたから何とか渡れたが、その直後に私たちの馬が渡河地点に到着したのである。ちゃんとしたガイドなら、しばらく馬を待って、馬で渡河させよう、と臨機応変に対応しただろう。
(この程度の小さな渡河地点は2カ所、大きな渡河地点は1カ所あった)
(標高5578mのパラン・ラの北側は氷河。ラは峠を意味する)

朝6時に朝食を食べ、7時に出発した日、正午になってもお昼の休憩をしないので、何時に昼ご飯を食べるのか、と聞いたら、午後2時、という。8時間の歩きで、午後3時ごろに野営場に到着する予定だから、2時までお昼をお預けにする意味が理解できない。もうお腹がすいた、と私たちは勝手にお弁当を食べ始めた。
(河原で野営。小さく見えるのが私たちのキッチンテント)
(標高4500mでも花盛り。エーデルワイスがたくさん咲いていた)

わずか2時間しか歩かず、翌日は8、9時間歩く予定の日があった。野営場は、水が出て、馬が食べる草がある場所に限られるから、均等に一日5、6時間歩くようなスケジュールは組めない。それにしても、翌日少しラクになるよう、その日もう少し先まで行けないのか、とガイドに聞いたら、「自分は、J(最初に頼んだガイド)に言われた通りにやってるんだ」と怒りだす。「私たちの体力に合わせて臨機応変に調整したっていいでしょう」というと、「こんな不満は聞いたことがない。あなたたちのために、自分は仕事まで犠牲にしたのに」とぷりぷりして、不愉快極まりない。

(木も岩もない見晴らしのよい野営地でトイレに困っていたら、はじめてトイレテントを立ててくれた--向こう側の小さなテント。面倒なのでこれまで立ててくれなかったらしい)
馬使いに聞いたら、2、3時間先にもよい牧草地がある、というので、馬使いの承諾を得て、野営地を変えるよう強く主張した。ガイドの通りに動いていたら、私たちが参ってしまう。料理人や馬使いにはちゃんとした職業意識があったが、ガイドには、できるだけ手抜きして、カネだけ稼ぎたい、という印象を受けた。
(野菜とマカロニの夕食)

(スピティ・バレーからラッダクに入ると、高地湿地帯が広がっていた。この先に湖がある)
スピティ・バレーは、ザンスカー・バレーより標高が高く、水があっても緑がなく村もない荒涼の谷だ。ラダックに入ってやっと緑が目を潤しはじめ、さらに高地湖ツォモリリの透明な水に足を浸したとき、はじめて意識が回復したように思えた。それまでは、夢遊病者のように、どこにいるのか、わけもわからずに歩いていた。それでも長年の習性で、写真だけは撮っていたので、夢遊病者の歩いたあとをいま、写真を見ながらたどっているところだ。