ザマの会戦の舞台を探す

●4日目、ザマを探してみた。カルタゴハンニバルは、スース(チュニジア東海岸の町)からザマへ、ローマのスキピオはウティカ(最後の日に行ってみた)に上陸して同盟者のマシニッサと合流し、ザマを目指した。フェニキア、ローマ時代の町ザマは、一部が発掘されているが、まだ公開できるほど修復されていない。あと3、4年はかかるだろう。ザマの会戦の舞台は、この近くの平原だったが、まだ特定はされていない。
遺跡近くの村は貧しく、子供たちがペンをねだる。ツーリストが来るようになったら、彼らの生活は向上するだろうか。

ザマのあと、高原の町マクタールへ。円形劇場がきれいすぎるほどきれいに修復され、大理石を敷いたローマ道が光っているが、地表から2mほど下にあるローマ道はすぐに土壁にぶつかる。ここもヌミディアの町だったが、前1世紀のカエサル時代、ローマの属州アフリカ・ノヴァとなり、ローマ化がすすんだ。ウティカを拠点とするポンペイウス派残党とカエサルとの戦いで、時のヌミディア王がポンペイウス側について敗れたためである。以後、ヌミディア王国は歴史から完全に姿を消す。

●5日目、エル・ケフへ。この町は、オスマントルコ時代の要塞が山のてっぺんにある、すてきな町だ。山の麓が旧市街、旧市街の下に、ローマ時代の浴場跡がある。カエサルのアフリカ・ノヴァの首都だった。坂道や階段を上り下りして旧市街を散策するのが楽しく、思ったより時間をとってしまった。

●6日目、「ユグルタのテーブル」と呼ばれる台地を経て、ハイドラに行った。ユグルタはヌミディア王マシニッサの孫で、ヌミディア王位(当時はローマと同盟を結ぶ独立国だった)を巡ってローマに対して反乱を起こし、紀元前105年、ローマに制圧された。ユグルタは、真っ平らなこの台地を天然の要塞としてローマと戦った、とされている。台地はかなり標高の高いところにあるので、遠くからよく見えた。近くで見ると、脚の短い大きなちゃぶ台のようだ。
ハイドラは、アルジェリア国境に近い寒村だ。こんな僻地までツーリストは来ないのだろう、2世紀に建てられた凱旋門ビザンチン時代の砦など、地表に出ている建造物を勝手に見て回ることができる。ここは初代皇帝アウグストゥスが、南から来るベルベル人対策の軍団駐屯地として建設した町で、軍団基地がアルジェリアに移されたあとは、退役軍人の入植地となった。
遺跡はほとんど未発掘で、いるのは羊飼いと羊ばかり。地中海と12の島を描いた素晴らしい地図モザイクがここで発掘されており、それを見るためにわざわざやってきたのだが、それは公開されていなかった。
たいへん大きな遺跡であることが、地表に露出した建物から見て取れる。発掘する資金がないのだろうか。残念なことだ。