無人の遺跡で被害にあう

●7日目。ハイドラで時間をとってしまったので、スベイトラ遺跡まで行き着けず、カセリンという小さな町に泊まった。カセリンで一番ましなホテルに泊まったが、シーツも何もかもきたなく、洗ったシーツを要求して自分でベッドメーキング。夜中、大騒ぎする人がいて、よく眠れないまま朝を迎えた。
カセリンにも遺跡があるが、ほとんど未発掘で、凱旋門と劇場などいくつかの建物が露出しているだけだ。遺跡は無人で、車を止めて30分ほど歩き回った。車に戻ると、ガラスが割られている。同行の友人が、「バッグがなくなっている」と叫ぶ。こっちこそ、「えー、バッグ置いてたの?!」と、より大声で叫んでしまう。

これまで、荷物は見える場所に置かないよう注意してきた。私は、一番大事なカメラと写真ストーレッジは、パスポートやお金と同様、常に持ち歩いている。
なんでこんなことになってしまったのか・・・。
歩いている間、彼女がバッグを持っていない、とは気づかなかった。彼女は、大事なものをすべてそのバッグに入れていたという。パスポート、カード、家のカギ、手帳、現金・・・。

すぐさま警察へ。警察は親切だったが、調書を取る大佐を待つこと7時間。その間、私は車にガラスを入れるため、あちこちのガレージを聞いて回る。
ゆうべ、この町はなんかいやだなあ、という直感があったが、町なかを運転すると、失業と貧困で町が荒れている様子が見えて来た。日中、若者がたくさん、暗い調子でたむろしているのだ。そんな町だからこそ、もっと注意すべきだった・・・。

警察がスベイトラ遺跡の横にあるホテルを手配してくれ、警察の負担でそこに泊まることに。

●8日目。正月前の金曜日。チュニス日本大使館は今日が最後の「営業日」だ。朝早く、ノンストップで車を走らせる。チュニスに入ると渋滞があるに違いないので、高速道路をすっとばして時間をかせぐ。前夜、友人は日本の家族にパスポート再発行用の書類を大使館にファクスするよう手配したので(ホテルは国際電話が不可能なので、大使館の方に連絡をお願いしたという)、うまくいけば、今日パスポートができ、予定通り、大晦日にはパリに戻れるだろう。
不幸中の幸いというか、警察も大使館もたいへん親切で、コトはスムーズに運んだ。盗難が一日遅く起きていたら、大使館が開く1月7日までパリに帰れなかった可能性もある。

●9、10日目。彼女は新しいパスポートで帰れることになって一安心。でもショックが強かったので9日目はホテルで静かに過ごし、私は、一人でウティカに行った。ウティカも人っ子一人いない遺跡だったので、現地ガイドをボデーガード替わりに雇った。ついていない時は何が起こるかわからない。
最後の日は友人と一緒にカルタゴを見学した。

不幸な事件ではあったが、結局、お金と時間の被害だけだった。気は落としても、体はぴんぴんしている。
「お金の被害なんて、働けば取りかえせるじゃない」と、私は仕事現役の彼女をなぐさめた。

そんな私には、パリにもどってから、不幸が待っていた。写真ストーレッッジに確かに入れた写真が、消えてなくなったのである。カメラのメモリーカードが満杯になると、写真をストーレッジに入れてカードを空にし、写真を取り続けていた。旅の途中でもストーレッジの写真を見たり見せたりしていたのに・・・もっと古い写真ファイルは残っているのに、今回の旅の最初の7日分だけ消えている!

ユグルタのテーブルやハイドラに、また行く日があるだろうか・・・・。

(写真は、カルタゴ人が作ったカルタゴ旧港とチュニス湾)