パリ13区を歩く

ロシア革命後、ロシア人移民が住んだ地区。タクシー業を営む人が多かった。ユージン・アッジェの写真に出てきそうな道。

20世紀初頭にできた、家族持ちの低所得者向け住宅。ぜいたくなものだ。

日本の住宅地みたい。入り口にわずかな庭があるだけ。

パリ・コミューンの友」という本屋、会の本部
通りのパブリックアート


パリ13区は、ベトナム、中国人街で知られている。面白みのまったくない高層アパートがたくさん建っていて、中国、ベトナム料理を食べに行く以外、足を向けることはほとんどない。

ところが、ときどき参加する日曜パリ歩きの会が、今回、13区の古い地区を歩くという。パリはどこを歩いても何か発見があるが、知っている人と歩けば、なおさらだ。曇り空だったが、行ってみた。

出発点のプラス・ディタリー(イタリア広場)までは自転車で。長い上り坂がきつかった。この通りは、ローマ時代、ルテシアと呼ばれたパリ(今の5区を中心とする)からリヨンを経てイタリアに通じる道だった。イタリア広場からさらにイタリア方向に続く道が、アヴェニュー・ディタリーだ。このアヴェニューを境にして西側(東側は高層アパート群)が、今回のパリ散歩の目的地である。

小さな坂道が錯綜している、ビュット(小高い丘)・オ・カイユと呼ばれる高台(といっても、モンマルトルほど高くはない)には、パリ郊外の家のような2階建ての家が並ぶ細道や、低所得者向けに作られた木造住宅が対面する広場(今は高級住宅?)があったりして、ここもパリ?と驚かされた。

パリ・コミューン広場」にも出くわした。近くに「パリ・コミューンの友」という本屋もある。パリ・コミューンとは、1871年3月から5月まで続いた、パリの労働者蜂起に端を発した”内乱”だ。わずか2ヶ月とはいえ「コミュニスト」という言葉の語源になるなど、歴史的には大きな意味を持つ出来事だった。20区のベルヴィル地区やペールラシェーズ墓地が蜂起した人々の最後の砦だったので、13区がどんな役割を果たしたのかはよく分からない。

一番驚いたのは、600mの地下から鉱泉が出ており、28度の水を使ったプール、浴場があること。前の広場には水汲み場があって、何本ものペットボトルに水を入れている人がいた。ここに住めば、ミネラルウォーターを買う必要がないようだ。このあたり、ドクトルなんとか、という名前の通りが多いのは、温泉療法の提唱者、実践者の医者にちなんでのことだという。

ああ、この鉱泉で一大温泉レジャーランドを作ればいいのに、もったいないなあ。温泉、足湯、打たせ湯、サウナ、蒸し風呂、マッサージの”花の巴里、癒しの湯”。(手垢にまみれた「癒し」という言葉が、こんなとき役に立つ)