またまた「パリ症候群」

土曜日、パリの日本文化会館で「パリ症候群」という映画の上映会があった。パリ症候群というのは、20年近く前、パリ在の日本人精神科医が書いた本のタイトルで、パリに来て精神を病む日本人(若い女性に多い)の症状を名付けたものだ。異文化における適応障害の一種だが、今では立派な精神医学用語となっている。

映画は、この症状に悩む若い女性の日常とカウンセリングの様子を追い、最後にバルコニーから飛び降り自殺するところで終わる。もちろんフィクションである。映画の中の女性は、仏語をそこそこ話し(言葉の壁もこの症候群の大きなファクターなのだが)、日本食材を買って料理するなど、日常生活もそこそこにこなしており、自らを死に追いやるほどの精神の苦悩は見えて来ない。いや、苦悩もないのに死んでしまうところに、この症候群の恐ろしさがあるのかもしれないが。

この人のパリ滞在の目的はなんなのだろう?死ぬくらいなら、なんで帰国しないのだろう?

映画はいろいろな疑問に答えるものではなかったので、上映後の制作者パネル・ディスカッションに期待したが、まるで、友だち同士がカフェでおしゃべりしているノリで、中身の乏しいものであった。

そこで私なりに考えて見た。

まず、なぜ日本人女性に多いのか。なぜ、ロンドン症候群やニューヨーク症候群ではないのか。単なる異文化適応障害でなく、パリという地名がつくところに、パリと日本女性との関係に特有の問題があるようだ。

1)日本では、若い女性向けの雑誌などでパリに関する情報が過剰なほど氾濫している。あこがれが掻き立てられるが、実際に来てみると、現実とのギャップが著しい。
2)夢を実現しないまま(夢がある場合はまだましだが)、すごすご帰国したくない、という見栄がある。無理をしてパリにしがみつくと、精神に異常をきたす。「パリにいること」が自分の唯一の価値となってしまう。確かに、日本では「パリに住んでます」というだけで、「わー、かっこいい」とか「すごーい」とか言われるが、私の暮らしなぞ、何もカッコよくなく、東京の人の数倍も質素なものだ。
3)パリに来た日本女性のなかには、日本の男女機会不平等を過大に宣伝する人がいる。フランス人から、日本では女性はほんとうにいい仕事に就けないのか、と聞かれたことがある。そんな人はパリでも努力せず、うまく行かないと、フランス人のせいにする。
4)親の仕送りや自分の預貯金で生活する人が多く、貧しい国からの移民のように、不法就労でも何でもいいから、ともかく仕事を見つけねば、という逼迫感がない。上記の本が書かれた20年前は、日本はバブル景気。お金だけあって目的意識のない人がたくさん、パリにやって来たらしい。
5)日本にいる時から、精神にやや異常をきたしていたか、周囲とうまくいかなかったりした人が、場所を変えれば万事うまく行く、という幻想を描いてやってきた場合。場所を変えても、自分が変わらなければ、やはりうまく行かないのである。外国に娘を追いやっておくため、親が仕送りを続けているケースもある。

パリ症候群にならないためには、
1)はっきりした目的を持つ。しかも、その目的に縛られない柔軟さをもっていれば、それがかなえられない場合、どこかで見切りをつけ、方向転換したり帰国したりできる。死ぬほどのことはなかろう。
2)私の独断的見解だが、目的の強さと、生活資金の多寡による苦労の甘受は反比例する。目的が強ければ、貧乏生活も耐えられるが、目的が弱ければ、貧乏生活は耐えがたい。外国生活の苦労(外国語修得、滞在許可のための書類整備や警察でのあしらい、習慣の違いなど)は、目的の強い人にも弱い人にも等しくのしかかるものだから、これは必要悪として、最初から耐えるつもりでいなければならない。それに耐えられないのなら、自国で暮らすほうがいい。

ここ2週間ほど、家のペンキ塗りで(上階からの水漏れで、台所、食堂、トイレの天井と壁がやられた)、フランスならではの苦労をしたので、自分にも言い聞かせている。「耐えなくちゃ、耐えなくちゃ」と。
約束した日に来た工事人が、「モノがありすぎて、仕事にならない」と言って、帰ってしまったのだ。「今日中に全部取り払うから、明日必ず来て下さい」と頼んだのに、翌日もその翌日も来なかった。塗り直しの部屋のものを全部、別の部屋に移したので、しばらく無意味なキャンプ生活が続いた。日本に帰ろかな、と思うのはこんな時だ。